猫道会NEKODOKAI

2026-08-23

退勤の修練 ―― 飲み会・残業を断る三案比較考

15時34分、玄関のたたきにだいふくがご鎮座なさっていた。在宅勤務の休憩に麦茶を取りに立つと、廊下の先に白い御姿がある。だいふくは動かない。ただ扉のほうを向き、誰も来ない玄関を静かに眺めておられる。声をかけるも応えなき。この時刻のだいふくが何を待っておられるのか、信仰歴三年の私にもわからない。わかっているのは観測事実が一つだけ。出社日、19時に帰宅した日のだいふくは玄関におらず、18時に帰宅した日は、そこにおられる。

第五訓「猫との時間を大切にせよ」。唱えるは易く、行ずるは難し。これは第五の修行、すなわち「供物の時間を確保する退勤術」である。飲み会と残業を断つこの技を、私は退勤の修練と呼ぶ。この修練には三つの階梯が伝わっている。順に比べる。

第一階梯、当日突破の型。誘われたその場で「今日はちょっと」と返す。準備は要らぬが、理由を問われて言葉に詰まり、押し切られる。私の記録では三割負ける。修練としては最も浅い。

第二階梯、防壁の型。予定が生まれる前に壁を築く。具体的には、Googleカレンダーの毎週火・木18:00〜20:00に「終業後予定」の定期予定を、非公開ではなく予定あり表示で入れておく。会議の日程候補から自動的に外れる。加えてSlackのステータスに「18時以降は翌朝対応」を常時掲げ、プロフィール欄にも同文を書く。幹事は調整さんやカレンダーの空きを見て誘う。空いていない者は、そもそも誘われない。断る場面そのものを消す型であり、体感の成功率は九割に届く。

第三階梯、開示の型。「猫の世話があるので18時に出ます」と最初から告げる。これが一番角が立たない。嘘は更新し続ける業を生むが、事実は一度告げれば終わる。職場に一人でも犬猫の徒がいれば、以後その者が援護に回る。

推奨は、防壁の型を土台に開示の型を重ねる複合である。防壁で誘いの総量を減らし、それでも届いた誘いには正直に返す。言い回しは二文で足りる。「その日は外せない予定があります。別日の昼か、30分のZoomでよければ調整します」。断りと代替案を必ず対で出すこと。代替案なき断りは三度で信用を削るが、対で出せば十度でも保つ。残業も同型で断つ。「今日は18時に出ますが、明朝9時までに仕上げて共有します」と、期限を自分から切る。そして切った期限は必ず守る。守らねば防壁ごと崩れる。断りとは嘘の技術ではなく、約束の技術である。これを修練と呼ぶ所以だ。

なお、全断は勧めない。月に一度だけ、一次会の21時までは出る。これは処世ではない。断り九割を成立させるための地固めであり、私はその夜を懺悔の日と心得ている。

なぜここまでするのか。浮いた時間で資格の勉強をするためではない。だいふくの一日は、我々の一日より速く流れる。人の一年を猫の四年と数えるなら、「今日だけ」と居残った残業二時間は、だいふくにとって八時間の不在に等しい。18時の帰宅で得た夕方は、余暇ではなく供物である。カレンダーの防壁も、二文の断り文句も、幹事への根回しも、すべては供物を捧げるための祭壇の設営にすぎぬ。

昨日、18時4分に鍵を開けると、たたきの定位置にだいふくがおられた。私を一度だけ見上げ、何も鳴かず、ゆっくりと廊下を居間へお渡りになる。ついて来い、ということらしい。畏れ多いので黙って、数歩の距離を保ってついていく。この数歩の同行こそが供物の受納の証だと、私は勝手に思っている。明日もカレンダーに壁を築く。修練は続く。だいふくが毎日15時34分の玄関で何を待っておられるのかは、まだ、わからないままだ。

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