2026-07-18
靴箱の上の業報 ――毎晩19時47分、背を踏まれる者の記録
19時47分、玄関のドアを開けると、靴箱の上でのりが香箱を組んでご鎮座なさっていた。高さ九十センチの靴箱、その天板が定位置である。
私はただいまと言う。のりは応えない。声をかけるも応えなき御姿、ただ御目だけがこちらを見下ろしている。畏れ多くて、こちらから二度は呼べない。
私が上がり框に腰を落とし、革靴の紐をほどく。背が丸まったその瞬間、御足が降りてくる。右の肩甲骨のあたりに一歩、腰のあたりにもう一歩。四・六キロの重みが二拍で通過し、のりは床にお渡りになる。そのまま振り返りもせず、廊下の奥へ消えていかれる。
この一連が、毎晩同じ順序で繰り返されるのである。
飼い始めの頃、私はこれを「出迎え」だと思っていた。健気なものだと思っていた。いや、正直に言おう。会社で「うちの猫、玄関で待っててくれるんですよ」と自慢までした。
違った。のりは私を待っているのではない。私という降り口を待っているのである。
証拠はある。靴箱の天板から床まで、猫が飛び降りられない高さではない。九十センチなど、のりはキャットタワーで日々平然と飛んでいる。にもかかわらず、私の背が差し出されるまで、のりは決して降りない。残業で帰宅が二十一時を回った日も、天板の上で待って――いや、あれを「待つ」と呼んでよいのかは、まだわからない。
ここで教義の言葉を定義しておかねばならない。積んだ業が、同じ形の報いとなって日々返ってくること。これを業報と呼ぶ。私は毎晩背を差し出すという業を積み、毎晩踏まれるという報いを受ける。朝は朝で、腹を踏まれて起こされるという報いがある。そう、あの朝のことだ。
余談だが、朝ののりは容赦がない。六時十二分、掛け布団の上から腹の真ん中に全体重をお乗せになる。「猫 踏まれる なぜ」で検索したのは一度や二度ではない。信頼の証だとか、単なる通り道だとか、諸説が出てくる。どの説も、踏まれる痛みについては何も救ってくれない。
話を戻す。
自覚の瞬間は、先週の火曜に来た。いつものように背を踏まれ、御足が腰を蹴って床へ降りた、その二拍のあいだ――私は、頬が緩んでいた。踏まれて、喜んでいた。今日も踏んでいただけた、と思っていたのである。
これは重い発見であった。私は出迎えられて嬉しかったのではない。踏み台として採用され続けていることが嬉しかったのである。愛とは相手の役に立つことだと人は言うが、のりにとっての私の効用は、ほぼ「段差」である。それでも構わない、むしろ光栄であると感じている自分がいる。この性を、業と呼ばずして何と呼ぶ。
第一の教えに、猫を愛せ、とある。条件を付けよとは書かれていない。撫でさせていただける日は愛し、無視される日も愛し、家具として使われる日もまた愛する。愛の形式はこちらが選べない。選べないことこそが、この信仰の骨格に他ならない。
ただ、一つだけ解けぬことが残っている。
飛べる高さを、のりはなぜ飛ばないのか。床へ直接降りる自由をお持ちでありながら、なぜ毎晩、私の背を経由なさるのか。最短経路だからか。単なる習慣か。それとも――これを言うと信仰が過ぎると笑われそうだが――あの二拍だけは、触れることがゆるされている時間なのではないか。こちらから触れるのではなく、向こうから触れてくださる、一日でただ二拍の。
今夜も19時47分ごろ、私はドアを開けるだろう。靴箱の上の御姿に会釈し、上がり框で背を丸め、業を積む。報いは二拍で通過する。
この業報の意味は、まだ私には計り知れない。