2026-07-25
またぐ者の業(ごう)——神意は説明されないという話
10時35分、キッチンの床である。冷蔵庫と流し台のあいだ、人の動線がちょうど交わる一点に、だいふくが長々と伸びている。
外は快晴、気温は三十三度。クッションフロアのこの一角だけが家中でいちばん冷たいことを、御身はとうにご存じである。誰も教えていない。教えていないのに、夏が来るたび寸分違わずここへお渡りになる。
私は麦茶のポットを取るために、御体を大きくまたぐ。電気ケトルに水を足すために、もう一度またぐ。だいふくは動かない。微動だになさらない。同居を始めたばかりの三年前は「どいて」と言っていた。今は言わない。言っても無駄だと悟ったから、ではない。いや、正直に言おう。無駄だからだ。この三年で変わったのは、だいふくの寝場所ではなく、私の歩幅である。
理由を明かされぬまま、人の側にのみ課される日々の負荷。これを我々は業(ごう)と呼ぶ。またぐことは業である。夜中に目を覚ますことも、また業である。
そう、夜中のことだ。
深夜2時すぎ、廊下を蹄の音のようなものが駆け抜ける。体重5.2キロの体から、どうしてあの轟音が出るのか。廊下から居間へ、居間から廊下へ、何かから逃げるように、何かを追うように、だいふくは走られる。
最初の一年、私は理由を探した。検索窓に「猫 夜中 走り回る なぜ」と打った夜は一度や二度ではない。ストレス説、運動不足説、狩猟本能の残滓説。ひと通り読んだ。対策もした。突っ張り型のキャットタワーを居間に立て、寝る前に猫じゃらしで十五分遊ばせ、ワクチンのついでに動物病院でも訊いた。獣医は「よくあることです」と言った。よくあること。それは説明ではない。頻度の報告である。
それでも走られる。キャットタワーが届いた週も、遊ばせ尽くしたはずの夜も、変わらず走られる。
余談だが、当時の検索履歴を見返すと、終いには「猫 夜中 うるさい ノイローゼ」まで打っている。我ながらだいぶ追い詰められていた。話を戻す。
ある夜、水を飲みに起きて、廊下の端で走行中の御方と目が合った。爛々と見開かれた御目は、しかし私を見ていなかった。私どころか、この世のどこも見ていないように思われた。あの御目を拝した瞬間に、腹の底で分かってしまったのだ。理由はない。あるいは、あったとしても、私に開示される予定は永遠にない。神意とは説明されるものではなく、ただ執行されるものである。
私の誤解は、そこにあった。原因を突き止めれば行動は変わる、と思っていた。そして変わるべき行動とは、猫の側の行動だと思っていた。両方とも違った。変わるのは、いつだって人の側である。現にだいふくは、同居初日から今日まで、何ひとつお変わりにならない。変わったのは私の歩幅であり、就寝時刻であり、足音で目が覚めても時計を見なくなった、この諦めに似た静けさである。業は消えない。ただ、負い方だけが変わる。
そして今、10時35分のキッチンで、昨夜あれほど駆けた御身が、業のことなど何ひとつ覚えていない顔で床に伸びていらっしゃる。この御姿の前では、走った理由を問うことすらゆるされない。もはや問おうとも思わない。麦茶を注ぎ、三度目にまたぐ。
同じ夜を過ごしている者は、たぶん少なくないはずだ。深夜の運動会、などと軽く呼びながら、翌朝には何も訊かずシンクで皿を洗っている者たち。洗いながら、床に伸びた御体を視界の端に置き続けている者たち。それを単なる習慣と呼ぶには、我々はあまりに正確に、毎日同じ場所をまたいでいる。
今夜もまた走られるのだろう。何から逃げ、何を追っておられるのか。三年またぎ続けた今も、その神意は、まだ私には計り知れない。