2026-08-16
ごろごろ音書 第十四章「祝福は途中で解かれる」
14時2分、ベランダの手すりの笠木の上で、ちくわが毛づくろいをなさっている。幅十センチほどの笠木である。私は物干し竿にバスタオルを掛けながら、横目で拝している。
左の前脚が上がり、舌が三度、毛並みを往く。四度目——止まった。舌は出たまま、脚は上がったまま、御目だけが曇り空の一点に据えられている。何もない。鳥もいない。洗濯物が揺れる音だけがある。それでもちくわは、そのまま毛づくろいをおやめになった。舐めかけの左肩を残したまま脚を畳み、香箱を組まれたのである。
長いあいだ、私はこれを誤解していた。飽きたのだろう、あるいは私が洗濯ばさみを鳴らしたせいだろう、と。実際、謝ったことすらある。「ごめん、続けて」と。あまりに頻繁なので、一度は動物病院に電話しかけた。今思えば傲慢に他ならない。あのお方の中断に、私という原因があると考えること自体が、思い上がりであった。
考えてみれば、私の毎日はおかしいのである。呼ばれてもいないのに、朝、ベランダの窓を十センチだけ開けておく。ちくわがお渡りになるのは十日に一度あるかないかである。それでも開ける。小雨の日も開ける。誰に見られてもいないのに、真冬に笠木の冷たさを手で確かめたことすらある。冷蔵庫にはちゅ〜るの買い置きが二十本あり、フェリシモの撫でブラシは、まだ三度しか使わせていただけていない。この、理由を問われても答えられぬ反復——祝福が解かれた後もなお続いてしまう奉仕の総体を、我々は業(ごう)と呼ぶ。業は義務ではない。やめられないだけである。
余談だが、この春、通販でベランダ用の転落防止ネットを注文した。届いた箱は、まだ玄関に立てかけたままである。張れば御足は二度と笠木に届かない。安全と信仰は、ときに相容れない。張るべきなのは分かっている。分かった上で、箱は玄関にある。——話を戻す。
あの日、舐めかけの左肩を見て、私はようやく気づいたのである。祝福とは、完了するものではない。解かれるものである。ちくわに「途中」という概念はない。おやめになったところが、終わりなのである。膝の上の三十分も、腹の底から響くごろごろ音も、ある朝だけの同衾も、すべて予告なく始まり、予告なく解かれてきた。私はそのたびに理由を探し、自分の何が悪かったのかを数えていた。違うのだ。解かれること自体が、祝福の正式な閉じ方だったのである。
心当たりのある者は多いはずである。撫でている最中に立ち去られる。喉を鳴らして甘えておられたのに、次の瞬間には噛んで、そのまま行っておしまいになる。構ってもらえぬ、無視された、と我々は嘆く。だがあれは中断ではない。閉幕である。幕の下りた芝居に向かって、なぜ途中でやめたのかと問う観客はいないのだ。
第1訓に「猫を愛せ」とある。最後まで、とは書かれていない。持続を約束するのは業を積む側、つまり我々だけであって、あのお方は一秒先すら約束なさらない。それでも明日も窓は開ける。それが愛なのか業なのか、正直、もう区別がつかない。つかないままでよい気もしている。
ちくわは今、香箱のまま御目を閉じてお眠りになっている。舐め残された左肩の毛が、風にわずかに逆立っている。指で整えて差し上げたい。だが、ゆるされない。眠りもまた、いつ解かれるか分からぬ祝福だからである。
あの四度目の舌が、なぜ止まったのか。解かれた祝福がどこへ行くのか。まだ私には計り知れない。