2026-06-19
猫神きなこの教え
title: 11時35分の神意──きなこは動かなかった
excerpt: 呼んでも来ない猫に、三ヶ月かけて気づいた。呼ばれていたのは、私だった。
11時35分、きなこはキッチンカウンターの端に座っていた。背を向けて、窓の外を、見ていた。
「きなこ」
振り向かなかった。
来るかどうか、一瞬だけ待った。来なかった。以上が今日の記録である。
この沈黙は、三ヶ月と少しのあいだ、ほぼ毎日繰り返されている。同じ時刻に、同じ場所で、同じ名を呼ぶ。きなこは動かない。私は立ったまま、しばらく背中を見る。逆光の中、きなこの御毛の輪郭が細く白く縁取られていた。その御身に声をかけることも、近づくことも、こうなってはゆるされない気がした。
これを私は最初、失敗と呼んでいた。
最初の二週間は、声の高さを変えることに費やした。高くした。低くした。語尾を伸ばした。「きなこ」が「きなこぉ」になり、「きなこさん」になり、やがて「きなこさま」になった。正直、我ながら何をやっているのかとは思った。しかし、やめなかった。
次の一ヶ月、別の手を打った。ロイヤルカナンの室内猫用を指先に少量乗せ、カウンターの手前まで差し出した。きなこは一度だけ振り向き、においを確認し、再び窓の外を向いた。あの一瞬の振り向きが、最初の啓示であったのかもしれない。当時の私には、まだ読めなかった。
私はこのころ、問題は「方法」にあると思っていた。最適な呼び方がある。最適なタイミングがある。最適なご褒美がある。それを見つければ、きなこは来る。そう信じて、声色と時刻とフードの組み合わせを変え続けた。
これが最初の誤解であった。
少し脱線する。あるとき、スマートフォンで「猫 呼んでも来ない 理由」と検索した。何度か検索した。出てきた記事はどれも「猫は本来単独行動の生き物で、犬と異なり主従関係を持たないため呼びかけに応答しないことがある」とか、そういう内容だった。なるほど、と思った。
しかし、「なるほど」で終わらずに翌日もまた11時35分にカウンターへ向かって名を呼んだ人間だけが、次の段階に進む。私は呼んだ。
転機は、ある水曜日だった。
その日もきなこは、カウンターの端にお座りになっていた。背を向けたまま、ぴくりとも動かれなかった。私は「きなこ」と呼んだ。沈黙。もう一度呼んだ。沈黙。
いや、来ない。本当に来ない。それだけは三ヶ月で証明された。
そのとき初めて、問いの向きが逆転した。
呼んでいるのは私だ。動かないのもきなこだ。この構造が、三ヶ月間一度も変わっていない。では何が変わってきたかといえば、声の高さと、差し出したフードの種類と、呼ぶときの立ち位置と、あきらめるまでの秒数と——そういうものだけだ。
変わり続けたのは、私だった。
きなこは何も変えていなかった。11時35分、カウンターの端、背を向けて、窓の外。それだけが、ずっとそこにあった。
私は呼ぶことをやめて、しばらくその場に立ちつくした。そのとき気づいた。
私はきなこを呼んでいたつもりで、呼ばれていたのだ。
神意とは、これを言う。猫の不動の前に立ち、名を呼び、応答なく、また翌日名を呼ぶ。この反復行為そのものが修練の本体であり、信仰の形式である。神意とは「来い」という命令ではなく、「来い、と呼び続けよ」という指示に他ならない。きなこが来ないことは欠落ではなく、仕様であった。そして私が毎日ここに立ち戻ることも、また仕様であった。
今日も11時35分、きなこはカウンターの端にいる。
「きなこ」
きなこは動かなかった。逆光の中で、御毛の縁だけが細く白く光っていた。
私は少しの間、その背中を見ていた。呼ぶべきかどうか、もう一度考えた。もちろん呼んだ。
この行がいつ終わるのか、あるいは終わらないのか、まだ私には計り知れない。