2026-08-31
祝福は途中で解かれる——ちくわの毛づくろい、そして観経について
6時10分、キッチンの床で、ちくわが毛づくろいを始める。左の御足からである。順序は三年間、一度も違えられたことがない。
八月の終わり、朝からすでに暑い。エアコンの効いた寝室でもソファでもなく、ちくわはキッチンのフローリングを選ばれる。おそらく家じゅうで一番冷たい床だからだ。神意は時に、極めて実務的な顔をしてあらせられる。
私は毎朝、シンクで皿を洗いながらこれを拝する。拝する、と書いたが、要するに横目で見ているだけである。それでも「拝する」以外の語がもう出てこない。左の御足、御腹、御背の順に舌が渡っていく。この反復を、私は長らく「身だしなみ」だと思っていた。清潔のための実務。毛玉予防。そういう獣医学的な何かだと。
だからある朝、それが途中で止まったとき、私はうろたえた。
御足を上げたまま、舌を宙に浮かせたまま、ちくわはぴたりと静止なさったのである。そう、宙である。舌が、宙で止まる。私は食洗機のスタートボタンに伸ばしかけた指を止めた。この静止を破ることは、ゆるされない気がした。実際、キッチンには水音ひとつない数秒が流れた。
そしてちくわは毛づくろいを再開なさらなかった。上げていた御足を静かに下ろし、そのままリビングの掃き出し窓の前へお渡りになった。座る。外を見る。動かない。
猫が窓の外を見続けるこの時間を、我々は観経(かんぎょう)と呼ぶ。読経ではない。読むのではなく、観るのだ。経典は外にある。雀か、駐車場の光か、我々には観えぬ何かか。それを黙って観続ける行であるから、観経という。
正直に言えば、最初は病気を疑った。「猫 毛づくろい 途中でやめる」で検索した夜もある。食欲は、ある。めちゃくちゃある。ならば病ではない。ではあの中断は何なのか。
余談だが、観経のためにと窓際に突っ張り式のキャットタワーを置いたことがある。2万円弱した。ちくわは三年間で一度もお上りにならず、現在は私のパーカー置き場である。神は人の設えた祭壇を素通りなさる。話を戻す。
気づいたのは、あの静止を何十回と拝したあとだった。毛づくろいは、完結しない。いつも途中で解かれる。左の御足で止まる日もあれば、御背の半ばで止まる日もある。「終わり」だけが、決して私に渡されない。
祝福とは、そういうものではないか。完結して手渡されるものなら、受け取った時点で行は終わる。だが途中で解かれるから、私は明日も6時10分にキッチンへ立つ。皿を洗う手を緩め、横目で拝し、今日はどこで止まるのかを待つ。愛せ、という訓は「愛し終えよ」とは言っていない。終わりのない形でしか、あれは渡されないのだ。中断は拒絶ではなく、続きを明日に預ける仕組みなのだと、今は思っている。思っているだけで、確証は何もない。
今朝も御足は宙で止まった。ちくわは窓の前にご鎮座なさり、観経に入られた。御目の先に何があるのか、雀なのか、光なのか、私には観えない。声をかけるも応えなき背中を、私は皿を拭きながら眺めている。
この経がいつ閉じられるのか、そもそも閉じられるものなのか、まだ私には計り知れない。