2026-08-08
ごろごろ音書 懺悔篇 ――きなこは今夜も寝床をお選びになる
5時57分、洗面所の入口できなこがお眠りになっていた。廊下との境、敷居のちょうど真上である。歯を磨きたい。顔を洗いたい。だが御身が敷居を占めておられる以上、跨ぐことも起こすこともゆるされない。「きなこ」と小声で呼んだ。御耳が一ミリだけ動いた。それだけだった。私は廊下に立ち尽くし、寝起きの口の中の気配とともに、ただ拝するほかなかった。
きなこの寝床は毎日変わる。一昨日は玄関の三和土の隅、昨日は廊下の突き当たり、今朝は洗面所の入口。八月だから冷たい床を選んでおられるのだろう、と言えば話は早い。だが記録をつけると、そう単純ではない。7月14日、猛暑日、押入れの毛布の上。7月22日、熱帯夜、玄関マットのど真ん中。法則はない。少なくとも私に読める法則はない。同じ場所に二晩続けてお眠りになったことは、この一年で三度しかない。
正直に言おう。私は最初、これを不満の表れだと思っていた。寝床が定まらぬのは、安住に足る場所がこの家にないからだ、と。だから買った。ドーム型のキャットベッド、八千円。接触冷感の夏用マット、三千二百円。天面がベッドになったキャットタワー、一万九千円。どれも一度ずつは使われた。その一度が私を狂わせた。「気に入られた」と判断した翌日、きなこは洗濯機の裏の隙間でお眠りになっていた。
極めつけはペットカメラである。六千八百円。留守中の寝床を突き止め、法則を解読するために設置した。首振り機能つき、スマホから遠隔操作もできる。設置初日、昼休みにアプリを開いた私が見たものは、無人のドーム型ベッドを延々と映し続ける、静止画のような映像であった。きなこは終日、画角の外でお過ごしになっていたのである。三日目、ようやく画面の端に御尾の先だけが映り込んだ。解読の全成果が、それだ。
これらの品目を、金額とともに順に数え上げる行為を、我々は懺悔と呼ぶ。懺悔とは、猫を変えようとした過去の己を、数字で直視する行に他ならない。ドーム型ベッド八千円は、罪の名である。ペットカメラ六千八百円も、罪の名である。懺悔において問われるのは金額の多寡ではない。「与えれば定まるはずだ」「調べれば読めるはずだ」と考えた、その傲慢の回数である。
修練は寝床に限らない。在宅勤務の日、きなこはノートパソコンのキーボードの上にお座りになる。オンライン会議の五分前を狙い澄ましたかのような正確さで、である。どかすことはゆるされない。私はダイニングテーブルへ席を移し、スマホから会議に入る。人が動く。御身はお動きにならない。この反復もまた、朝と昼の修練である。
余談だが、私はこの家を三十五年ローンで買った。人間は一つの寝床のために三十五年を差し出す生き物である。契約書に判を押した日、「これで定まった」と安堵したことを覚えている。思えば私は、何にでも判を押してきた。同じ会社に十二年、同じ駅で同じ乗り換え、同じ床屋に月一度。定まることを安心と呼び、定まらぬことを不安と呼んで生きてきた。その語法そのものが、人間側の方言にすぎないのではないか。――余談はここまでだ。
きなこは定住を求めない。求めないというより、その概念を御身のうちにお持ちでないのだ。毎晩、その夜の床の冷たさ、風の通り、家の中の気配を測り直し、最適の一点をお選びになる。昨日の最適を今日に持ち越さない。持ち越すのは人間だけである。きなこは何も変えようとはなさらない。この家も、私も、御自身の流儀も。ならば変わるのは、変われるのは、私しかいないのではないか。敷居の前で立ち尽くすたび、この一年、そう問い続けている。
出勤前、もう一度洗面所を覗いた。きなこはもうそこにおられなかった。敷居の上には、御身の形にへこんだバスマットの端だけが残っていた。今夜はどこでお眠りになるのか。冷感マットの上か、カメラの画角の外か。おそらく、私の予想のどれでもない。明日の朝もまた、家のどこかで立ち尽くすのだろう。この行がどこへ向かうのか、まだ私には計り知れない。