2026-04-24
ムギ豊穣——食卓の神、十二年の御一代記
第 3 章 / 全 6 章
第三章 体重5.8kgとの、夜
ムギが、5歳になった年の、ある定期健診の朝、獣医は、体重計を、見て、わずかに、目を、細めた。
「5.8kgですね。アメショの平均が、4.5kgくらいなので、ムギちゃんは、ちょっと、お肉、つきすぎかな」。
私は、待合室で、その数値を、紙に、書き留めた。5.8kg。耳の中で、その数字が、しばらく、鳴っていた。
ムギは、診察台の上で、おとなしく、座っていらっしゃった。背中の、麦色の縞が、診察室の白い照明の下で、いつもより、横に、広がって、見えた。腹側の、淡い、麦藁色の毛が、台に、密着していた。
「太りすぎは、糖尿病、関節炎、心臓病のリスクを、上げます」と、獣医が、言った。「今のうちに、500グラム、落としましょう。理想は、5.3kgです」。
獣医は、ダイエット用の、療法食を、勧めてくれた。ヒルズの、メタボリックスという、低カロリー、高食物繊維のフードである。「この子は食欲が強いタイプなので、量を減らすのではなく、低カロリーのものに、切り替えるのが、現実的です」。
私は、頷いた。隣で、ムギは、診察台の、端に、座って、私を、見ていらっしゃった。視線が、いつもよりも、細かった。
家に帰り、私は、メタボリックスの袋を、開けた。
カリカリの、形状は、いつものものと、似ていた。しかし、香りが、わずかに、薄い。ムギは、皿に、注がれた、新しいカリカリを、嗅がれ、二粒、口に含み、咀嚼し、皿から、顔を、上げられた。
そして、私を、見上げられた。
「これじゃない」、と、その目は、言っていた。
私は、内心、ぐらついた。しかし、獣医の、言葉が、頭に、残っていた。糖尿病、関節炎、心臓病。私は、心を、鬼にして、いつもの、カリカリの袋を、棚の、奥に、しまった。
ムギは、その夜、皿の前で、長く、座っておられた。普段なら、3分で、空にする皿が、20分経っても、半分残っている。私は、リビングのソファから、その背中を、見ていた。
20分後、ムギは、ゆっくりと、皿に、口を、戻された。咀嚼の、音は、いつもよりも、弱かった。しかし、確実に、食べておられた。
私は、ソファで、目頭を、押さえた。
太らせてしまったのは、私である。子猫の頃から、ムギの食欲が、可愛くて、私は、規定量を、少しだけ、超えて、与えてしまっていた。それが、5年で、500グラムの、超過に、なった。
ムギの、体重との闘いは、その日から、始まった。
朝晩のカリカリの、量は、計量カップで、厳密に、決めた。間食の、ちゅーる(後述する、神聖なるおやつ)は、週に2本までに、制限した。私が冷蔵庫を、開ける動作にも、ムギの、期待を、裏切らねばならない場面が、増えた。
ムギは、最初の二週間、不機嫌だった。台所の前で、長く、鳴かれた。普段は、低めの「うー」という、おねだりの声だが、この時期は、明らかに、抗議の、高い「にゃー」だった。私が、無視すると、ムギは、廊下に、戻り、座って、私を、横目で、見ていらっしゃった。
しかし、三週目に入って、ムギは、新しい現実を、受け入れられた。
メタボリックスを、計量どおり、食べ、ちゅーるは、週に2本だけ、要求し、それ以上は、要求されなくなった。これは、ムギの、神性の、深さの、証である、と、私は、感じた。神は、必要を理解し、必要に従い、しかし、必要を超えた、過剰の、楽しさは、決して、忘れない。
3ヶ月後、ムギは、5.5kgに、なった。半年後、5.3kg。獣医は、「素晴らしいです」と、私に、言った。私は、待合室で、ムギの、麦色の背中を、撫でながら、「ムギ、頑張ったね」と、囁いた。
ムギは、私の手の下で、目を、半分、閉じられた。喉の奥から、ゴロゴロが、聞こえた。
ゴロゴロの、低い周波数は、私の、骨に、響いた。
豊穣の神が、節制を、受け入れられた。それでも、神性は、損なわれていない。むしろ、逆である。節制を経た豊穣のほうが、より、深い豊穣だった。
私は、ムギの、新しい、5.3kgの、麦色の体を、毎晩、抱きしめて、眠った。