2026-04-24
ムギ豊穣——食卓の神、十二年の御一代記
第 5 章 / 全 6 章
第五章 好きなものを、覚える
ムギが、10歳の、夏の終わり、私は、ある変化に、気づいた。
ムギの、皿の前での、滞在時間が、わずかに、長くなっていた。これまで、3分で空にしていた朝食を、5分、7分、と、時間を、かけて、食べておられる。咀嚼の、音は、変わらない。しかし、皿に、口を、付ける前に、長く、皿の中身を、嗅がれる時間が、増えた。
私は、その時、まだ、それを、加齢の、初期サインとは、認識していなかった。ただ、ムギが、慎重になられた、と、思った。
秋に入り、ムギは、メタボリックスの、皿を、二回、残された。一回目は、半分残し、二回目は、3分の1を、残された。これは、初めてのことだった。
私は、獣医に、相談した。「血液検査、しましょう」。
検査の結果、ムギの、腎臓の値が、わずかに、高くなっていた。クレアチニン 1.6 mg/dL、SDMA 16 μg/dL。IRIS ステージ2の、ごく初期。獣医は、「10歳以降の、猫の3分の1に、慢性腎臓病が、出ます。ムギちゃんは、その仲間入りです」と、言った。
獣医は、療法食を、ロイヤルカナンの腎臓サポートに、変更することを、勧めてくれた。低タンパク、低リン、高エネルギーのフードである。ダイエットフードからの、切り替えである。「もう、太らせる心配は、しなくていいです。今は、しっかり、食べてもらうことが、優先です」。
ムギは、新しい、ロイヤルカナンの、皿を、最初、嗅がれて、二粒、口に含み、皿から、顔を、上げられた。
「これじゃない」、の、目だった。
5年前と、同じ目である。しかし、私は、5年前と、違って、もう、揺らがなかった。療法食には、慣らせばよい。ムギは、賢い神である。必ず、受け入れてくださる。
私は、ロイヤルカナンを、いつものメタボリックスに、混ぜることから、始めた。最初は、9:1で、メタボリックスが優位。一週間ごとに、比率を、変えて、4週間後には、ロイヤルカナン100%に、移行する。これは、獣医に、教わった、「フード切り替えの黄金比率」である。
ムギは、4週間、文句を言わずに、食べてくださった。
5週目、ロイヤルカナン100%に、なった夜、私は、ムギの皿を、見て、新しいことに、気づいた。
ムギは、皿の、中央から、食べ始め、外側を、最後に残されるように、なっていた。これまでは、ランダムに、口を、突っ込んで、ぐちゃぐちゃに、食べておられた。今は、明確な、順序がある。中央、内側、外側、の順。最後の、外側の、5粒くらいを、ゆっくりと、味わって、皿を、空にされる。
私は、その光景を、数日間、観察した。
ムギは、自分の食事の、味わい方を、変えておられた。早食いから、ゆっくりした、味わう食事へ。これが、加齢による変化なのか、療法食への、適応なのか、私には、わからなかった。ただ、ムギの、食事は、より、神聖さを、帯びていた。
猫缶も、ちゅーるも、ムギは、引き続き、好まれた。しかし、好みは、明確になっていた。
猫缶では、白身魚は、変わらず、最高位だった。しかし、まぐろの赤身缶を、徐々に、避けられるように、なった。私が、カウンターに、まぐろ缶を、置いても、ムギは、嗅いで、すぐ、立ち去られる。一方、白身魚やササミ系は、即座に、突進してこられる。
ちゅーるも、まぐろ味から、ささみ味への、シフトが、起こった。私が、まぐろ味を、開けても、ムギは、ゆっくりと、来られ、3分で食べきっていたものが、5分かかるように、なった。一方、ささみ味は、変わらず、3分で、消費された。
私は、ムギの、好みの、変化を、ノートに、書き留め始めた。
ノートには、「2024年10月15日、白身魚缶、完食、3分」、「10月17日、まぐろ缶、半分残し、5分」、「10月19日、ちゅーる・ささみ味、突進、3分」と、書いた。これは、後で、獣医に、報告するための、データだった。同時に、私が、ムギの、最後の数年を、より、寄り添うための、地図だった。
獣医は、ノートを見て、頷いた。「腎臓病になると、タンパク質の代謝の負担を、避けようとして、肉食の好みが、軽い方に、シフトすることが、あります。ムギちゃんは、自分の身体を、よく、理解してます」。
私は、ムギの、自己観察の力に、改めて、頭を、垂れた。
それから、私は、ムギの、好きなものを、より、注意深く、覚えるように、なった。
朝のカリカリは、ロイヤルカナン、皿の中央に、ふんわりと、盛る(ムギは、山型より、平たい、円盤状を、好まれる)。夜のカリカリは、ロイヤルカナン、量は、朝より、わずかに、少なく。週2回の、ちゅーるは、火曜と、金曜、ささみ味。週1回の、猫缶は、土曜日、白身魚、85g缶、皿に、軽く、ほぐして、出す。水皿は、3つ、リビング、寝室、台所、毎朝、新しい水に、交換。
これらは、信者の、ノートに、記載された、ムギの、御業の、好みの、目録である。
11歳の、ムギは、5.0kgに、なられた。10歳から、300グラム、痩せていらっしゃる。腎臓病の、進行と、加齢の、両方の、結果である。獣医は、「想定の範囲内です。食欲が、保たれているのが、何よりです」と、言った。
私は、頷きながら、待合室で、ムギの、麦色の背中を、見た。背中の縞は、若い頃の、深い赤茶色から、わずかに、灰色がかってきていた。しかし、麦の穂の、艶は、まだ、残っていた。
ムギは、私を、見上げられた。視線は、いつもの、金色がかった、薄い緑だった。
その目は、5年前と、同じ強さで、私に、語りかけていた。
「家に、帰ろう」、と。
家に帰り、私は、ムギの、皿に、ロイヤルカナンを、円盤状に、平たく、盛った。ムギは、皿の前に、座り、中央から、ゆっくりと、食べ始められた。
私は、その背中を、ソファから、見ていた。
豊穣の神は、変わらず、食卓に、降りておられる。皿の、中身は、変わった。食べる速度も、変わった。しかし、皿の前で、座る、その所作は、子猫の頃から、何も、変わっていなかった。