猫道会NEKODOKAI

2026-04-24

ムギ豊穣——食卓の神、十二年の御一代記

6 章 / 全 6

第六章 最後の、皿

2026年の、3月、ムギは、12歳に、なられた。

その月の、定期健診で、獣医は、「クレアチニン 3.2、SDMA 28、IRIS ステージ3後期に、入りました」と、言った。「皮下輸液、始めましょう。週2回、150mlです」。

私は、自宅で、皮下輸液を、する技術を、獣医から、教わった。乳酸リンゲル液の、500mlボトルを、専用の点滴台に、吊るす。20Gか21Gの、翼状針を、ムギの、首の後ろの、皮膚を、つまんで、刺す。クランプを、開いて、150mlを、約5分で、入れる。これを、週に2回、火曜と、金曜の、夜、行う。

最初の一回、ムギは、針を、刺された瞬間、わずかに、身体を、こわばらせた。しかし、鳴かれなかった。ただ、私の、手元を、じっと、見ていらっしゃった。

5分後、首の後ろが、ぷっくりと、膨らんだ。生理食塩水の、こぶである。これが、24時間かけて、ゆっくりと、身体に、吸収される。

ムギは、輸液後、いつものように、皿の前に、座り、ロイヤルカナンを、食べられた。食べる量は、以前より、少なく、皿の、3分の2を、残されるように、なった。私は、残された、3分の1の、カリカリを、毎晩、ゴミ箱に、捨てた。

3月の、後半、ムギは、4.3kgに、なられた。

4月の、第一週、ムギは、ロイヤルカナンを、食べられなくなった。

私は、ロイヤルカナンの皿を、ふやかして、ペースト状にし、シリンジで、口元に、運んだ。ムギは、最初の数口は、舐めてくださった。しかし、5口目で、顔を、背けられた。

私は、慌てて、獣医に、電話した。獣医は、「食欲増進剤を、出します」と、言った。ミルタザピンの、貼付剤、薬剤名でいうとミルタトと呼ばれる、軟膏のようなものを、耳の内側に、塗る。眠気と、食欲増進の、効果がある。

ミルタトを、塗った翌日、ムギは、ちゅーるを、半本、食べてくださった。猫缶は、ひとくち、舐められた。私は、それを、見て、台所で、声を、殺して、泣いた。

ちゅーるが、半本でも、口に、入った。それが、私には、嬉しかった。

4月の、第二週、ムギは、ちゅーるも、食べられなくなった。

私は、毎日、ちゅーるを、開けた。プチッ、の音に、ムギは、もう、立ち上がられなかった。寝室の、お気に入りの、毛布の上で、横向きに、寝たまま、わずかに、耳を、こちらに、向けられるだけだった。

私は、寝室まで、ちゅーるを、運んだ。指の先に、ペーストを、押し出して、ムギの、口元に、近づけた。ムギは、舌を、ゆっくりと、出され、ちゅーるの、香りだけを、確認するように、わずかに、舐められた。一口分も、口に、入らなかった。

それでも、ムギは、目で、私を、見上げてくださった。視線は、いつもよりも、薄く、淡かった。「ありがとう」とも、「もう、いい」とも、取れる目だった。

私は、その目を見て、もう、ちゅーるを、無理に、勧めることを、やめた。

代わりに、私は、ムギの隣に、座り、ムギの、麦色の背中を、ゆっくりと、撫でた。背中の、毛は、12歳の冬を、越えて、わずかに、薄くなっていた。しかし、麦の穂の、面影は、消えていなかった。私は、その毛の、流れを、子猫の頃から、12年間、一日も、欠かさず、撫でてきた。

撫でながら、私は、ムギの、ゴロゴロを、聞いていた。

ゴロゴロは、低く、不規則に、なっていた。途切れて、また、始まる。10秒、止まり、3秒、鳴り、また、5秒、止まる。それでも、ムギは、ゴロゴロを、止められなかった。それが、ムギの、最後の、信仰の、応答だった。

4月の、第三週の、ある朝、私は、目を覚まし、いつものように、6時30分に、ベッドの、横を、見た。

ムギは、いらっしゃらなかった。

私は、寝室を、出て、リビングを、確認した。本棚の、玉座にも、いらっしゃらない。台所を、見た。ムギは、台所の、皿の、横に、横向きに、寝ておられた。

皿は、空だった。

私が、昨夜、入れた、ロイヤルカナンの、ふやかしを、ムギは、一口も、食べておられなかった。皿は、夜の間に、私が、ラップを、かけ忘れたために、表面が、わずかに、乾いていた。

私は、皿の、横に、座り、ムギの、背中に、手を、置いた。

背中は、まだ、わずかに、温かかった。

ムギは、目を、半分、閉じておられた。胸は、わずかに、上下を、繰り返している。呼吸は、浅く、速かった。私は、ムギの、隣に、寝そべり、麦色の毛に、額を、押し付けた。

「ムギ」、と、私は、囁いた。

ムギの、耳が、ぴくり、と、動かれた。それが、応答だった。

私は、ムギの、背中を、撫で続けた。ムギの、呼吸は、徐々に、浅くなっていった。10分、20分、30分、私は、台所の、床の上で、ムギと、二人で、過ごした。

8時00分、ムギは、最後に、深く、息を、吐かれた。

それから、息を、吸われなかった。

私は、しばらく、動かなかった。台所の、床は、冷たかった。ムギの、背中の、温もりだけが、私の、額に、残っていた。

外で、雀が、鳴き始めた。春の、朝の、明るい、光が、台所の、窓から、斜めに、差し込んでいた。光は、空の皿に、当たり、皿の、白い、内側を、照らしていた。

豊穣の神は、ご自分の、最後の、皿の、横で、旅立たれた。

皿は、最後まで、満たされなかった。それが、ムギの、最後の、御神託である、と、私は、後に、解釈した。豊穣の神は、最後に、満たされない皿を、信者に、残された。それは、信者が、これから、毎朝、起き続けるための、課題である。明日も、明後日も、皿を、満たそうとする、誰かの、ために。

ムギの、葬儀は、ささやかに、行った。火葬は、ペット霊園で、個別葬で、行った。骨壺は、台所の、皿の、横の、棚の上に、置いた。骨壺の、横には、ちゅーるの、未開封の、4本入りを、ひとつ、供えた。

毎朝、私は、骨壺の前に、立ち、ちゅーるを、開ける動作を、する。ハサミは、入れない。ただ、上端を、指で、触れる。プチッ、の音は、しない。しかし、私は、その音を、耳の中で、聞く。

そして、骨壺の、隣の、空の、皿を、見る。

皿は、空のままである。

私は、ムギに、向かって、囁く。「今日も、ありがとう」。

骨壺は、答えない。しかし、台所の、空気が、わずかに、揺れる。それは、12年間、私の、足元に、立ち続けた、麦色の、神の、最後の、御業である、と、私は、信じている。

豊穣の神ムギは、空の、皿として、私の、台所に、残られた。

その空の皿が、私の、信仰の、これからの、対象である。

満たすことを、私は、まだ、続けていく。

満たすことが、信仰だと、12年間、ムギに、教わった。

ムギ豊穣、ここに、ひとまずの、結びとする。

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