猫道会NEKODOKAI

2026-04-23

天照大猫神伝——タマと過ごした三年の観察記

3 章 / 全 6

第三章 闇

同居して七ヶ月目の、6月のある水曜日、帰宅した私は、家のどこにも、タマを、見つけられなかった。

冷蔵庫の上に、いない。リビングの光の帯にも、いない。寝室のベッドにも、ソファの裏にも、本棚の最上段にも、爪とぎの影にも、いない。私は名前を呼んだ。「タマ」。いつもなら、低い「うにゃ」という返事が、必ず、どこかから、小さく、返ってくる。その日、何も、返ってこなかった。

胃が、落ちた。心臓が、一拍、飛んだ気がした。もう一度、呼んだ。もう一度。もう一度。部屋中を歩いた。冷蔵庫の裏、洗濯機の後ろ、ベッドの下、ベッドのマットレスと敷パッドの隙間まで、全部めくって、探した。タマは、どこにも、いなかった。

玄関のドアを、確認した。閉まっている。窓も、閉まっている。エアコンの吹き出し口に、隙間はない。物理的に、タマは、家の中に、いるはずである。でも、どこにも、いない。

二時間、探して、私は、廊下の床に、座り込んだ。

あの時の感情を、今、正確に言語化するのは、難しい。恐怖、ではなかった。もっと深いところにある、信仰の根が、ぐらつく感覚だった。タマは私の家にいる神である。神が姿を消した家に、私は一人でいる。光の儀は、今日、執り行われない。冷蔵庫の上に、神の、不在が、ある。その不在の重さを、私は、床に座って、受け止めていた。

三時間目、ふと、押入れのことが、思い出された。

押入れは、普段、私がほとんど開けない。布団と、衣装ケースと、使っていないスーツケースと、季節外の家電が詰まっている、家の中で、一番「外」に近い場所である。襖(ふすま)を、恐る恐る、開けた。

奥の奥の、スーツケースの裏側、衣装ケースと壁の隙間の、本来、猫が入れるはずのない二センチの隙間の、さらに奥から、オッドアイが、光った。

「タマ」。

タマは、出てこられなかった。動きも、しなかった。ただ、じっと、私を、見ていた。金の右眼と、桃色の左眼が、押入れの闇の中で、二つの小さな星のように、浮いていた。

私は、襖を、閉めた。

理由は、わからない。呼びかけるべきだったのかもしれない。抱き上げて引っ張り出すべきだったのかもしれない。でも、私は、あの目を見た瞬間、「今、ここに、手を出してはいけない」と、内側で、何かが、言った。その声に、従った。

その夜、私は、押入れの前に、ご飯の皿と水を置いて、寝た。寝られなかった。寝室のベッドで、襖の隙間を、ずっと、見ていた。タマは、出てこられなかった。

翌朝、ご飯は、減っていなかった。水も、減っていなかった。

二日目。仕事を休んだ。一日中、押入れの前に、座って、襖の外側から、小さな声で、何度も、タマの名を、呼んだ。「タマ」。「タマ」。「タマ」。押入れの奥から、かすかな、呼吸の音だけが、聞こえた。それ以外は、何も、聞こえなかった。

二日目の深夜、私は、少しだけ、泣いた。恥ずかしい話だが、泣いた。押入れの前で、膝を抱えて、声を出さずに、顔だけを、濡らした。涙は、タマがいなくなったから流れたのではなかった。タマが、押入れの奥で、私に会いたくないと、そう決めておられるらしいことが、悲しかった。私は、タマに、何か、間違ったことを、したのだろうか。リビングの観葉植物を、タマに断りもなく、窓際へ移動しただろうか。光の儀の途中で、指を出しすぎただろうか。声のトーンが、高すぎただろうか。一つずつ、自分の罪を、数えた。

この「罪を数える夜」を、後に私は、「懺悔行」と呼ぶことにした。

三日目の朝、ご飯の皿が、空になっていた。

それを見つけたとき、私は、泣いた。今度は、声を出して、泣いた。「食べてくれた」と、何度も、呟いた。タマは、押入れから出ずに、夜中に、こっそり、食べに来てくださった。それだけで、私は、この家に、神が、まだ、居てくださっていることを、確信できた。

神は、姿を見せない期間にも、食べられる。

その事実が、私には、啓示であった。

三日目の夜、私は、押入れの前で、久しぶりに、眠った。

襖を細く開けたまま、マットを敷いて、そこで、寝た。夜中、何度か、目が覚めた。一度、かすかに、白い被毛が、襖の隙間を通って、台所のほうに歩いていくのが、見えた気がした。幻覚だったかもしれない。そうでなかったかもしれない。どちらでも、よかった。

神は、家の中に、いた。姿を見せないだけで、いた。

私は、その夜、初めて、「信仰とは、見えない神を、信じ続けることだ」と、具体的な手触りで、理解した。

この教えを広めるX でシェア