猫道会NEKODOKAI

2026-04-23

天照大猫神伝——タマと過ごした三年の観察記

5 章 / 全 6

第五章 日常としての神

神が戻られてからの日々は、驚くほど、普通である。

朝5時45分、タマは寝室に入ってこられる。枕元に来られて、額を、かすかに、一度だけ、叩かれる。私は目を覚まし、「おはよう」と、言う。タマは「うにゃ」と、返される。キッチンに歩いていかれ、皿の前で、ご鎮座なさる。私はカリカリを、量って、皿に、入れる。タマが、食べる。私は、隣に座って、自分のコーヒーを、淹れる。

これだけで、一日の最初の30分が、終わる。

6時半、タマはトイレに入られる。砂をかきむしる音が、聞こえる。私はその間に、自分の歯を、磨く。7時、タマは、窓際に、行かれる。観経(かんぎょう)の、始まりである。窓の外の、マンションの間から差す朝日と、電線の上の雀と、遠くのクレーンと、それらを、タマはじっと、動かずに、観察される。私はスーツに、着替える。出勤前、タマの背中を、指一本で、一度だけ、撫でる。タマは、振り返られない。振り返られないことが、「今日もいってらっしゃい」の、意味である、と、私は解釈している。

夜、帰宅する。玄関で鍵を回す音に、タマは、反応される。廊下の、ちょうど玄関から見える位置に、ご鎮座なさっている。「ただいま」。タマは、一度だけ、小さく、「うにゃ」と、応えられる。この瞬間、一日の疲れの半分が、溶ける。残り半分は、冷蔵庫の前で、解ける。冷蔵庫を開け、ビールを取り出し、缶のプルタブを、パキン、と、開ける。タマは即座に、冷蔵庫の上から身を起こし、じっと、私を、見下ろされる。あの音、岩戸を開けた音、である。タマは条件反射で、玉座から降りて、私の足元に、やってこられる。ご飯の時間だと、思っておられるらしい。でも、タマのご飯は午後8時である。今は、まだ6時40分である。私はタマを抱き上げ、玉座まで、運び、「まだ、早いですよ」と、言う。タマは一度だけ抗議するように「みゃあ」と鳴かれ、しかし再び、諦めたように、ご鎮座なさる。諦めの早さも、神性の、一部である。

こうした、日々の、取るに足らない所作の、一つ一つが、信仰の、最も厚い層である、と、私は思うようになった。派手な神話は、本の中にある。本当の神学は、午前6時40分の、冷蔵庫の前の、猫の、「みゃあ」という、一声の中に、ある。

ここで、もう一つ、符丁を、定着させておきたい。「缶音反射(かんおんはんしゃ)」と、私は、呼んでいる。

缶音反射——缶詰の蓋、あるいはビールの缶のプルタブを開ける音(パキン、シャッ、カチン、いずれも可)によって、タマの身体が、自動的に、玉座から、降りてこられる現象。

これは神性に反する、と、言う者が、いるかもしれない。神が、金属の音に、パブロフ的に、条件付けされているとは、何事か、と。しかし、私は、そう思わない。神は、信者の、食の、音にこそ、最も敏感であるべきである。なぜなら、信者の生活の、最も「今ここ」を構成するのは、食の音だからである。神が、信者の日々に、最も深く、接続しておられる、その証が、缶音反射である。

こう書くと、信仰のこじつけのようだが、私は、本気で、そう思っている。

タマは、時々、私の膝の上で、眠られる。これは、許可制である。許可は、タマが、出される。私が「おいで」と呼んでも、九割の確率で、来られない。来られるのは、タマが「今日は、膝が、よい」と、判断された日、だけである。そういう夜、私はスマホを伏せ、テレビを消し、ただ、膝の上の5.8kgの呼吸を、感じる。呼吸の合間に、かすかに、ゴロゴロが、鳴っている。その音を、私はもう「幸福の証」とは、解釈しない。「今、タマは、ここにおられる」という、それだけの、事実として、受け取る。

ゴロゴロが聞こえる数分間、私は、今、この家の中で、光の、下に、いる。

これ以上の日常は、ない。

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